Seishi Ono's blog

Fugaces labuntur anni. 歳月人を待たず

日本の高等教育機関における教員と事務職員(2)

2 マーティン・トロウのモデルにおける大学経営

日本における高等教育機関の教員と事務職員の問題を考えるための導きの糸として,トロウモデルを取り上げる.大学の未来を占うものとして,盛んにもてはやされたトロウモデルは,今日ではすっかり忘れられた存在であるが,その説明力は,今日でも侮れないものがある.

周知のように,マーティン・トロウは,大学の進学率というたった一つのパラメータだけで,米国の高等教育機関は,エリート型,マス型,ユニバーサル型と進化してゆくとするモデルを構築した[3].1970年代のことである.この時代は,米国はベビーブームが終焉を迎え,高等教育機関も大きな変貌を遂げて行く時期に当たっており,トロウのモデルは,エリート型からマス型に移行して行く米国の高等教育機関の状況を良く説明していた.

ただし,トロウの述べたユニバーサル型については,この時代の米国には本格的には到来しておらず,当時の米国の実状から演繹された予想モデルに過ぎない.このため,その後の米国の高等教育機関の変遷を見た場合,ユニバーサル型におけるトロウの予想は,必ずしも妥当しなかった部分もある.

それでもトロウモデルに魅力があるのは,進学率という単一のパラメータしかない単純なモデルで,多くのことが説明できるという点にある.

2000年代初頭に日本の高等教育機関は,第二次ベビーブームの終焉に伴い急速に18歳人口が減少して行く段階を迎えた,トロウモデルでいえば,ちょうどマス型からユニバーサル型への転換点を迎えたように思われ.この時,単純ながら説明力のあるこのモデルは日本にも適用可能なものとして大いに注目された.ただし,日米の間の環境の違いから,日本へのトロウモデルの適用が必ずしも妥当しなかった部分もあり,さらにユニバーサル型に至っては,モデルの予想とは次第にずれが大きいものとなっていったとしてもやむを得ないところである.近年トロウモデルの取り上げられる機会が減少してきているのも,こうした事情による.

とはいえ,このモデルは,半世紀を経た今でも示唆に富んでいる.日本では主として教育研究の在り方の変貌などについてのモデルの予想が注目される中で,あまり注目される機会は少ないが,大学経営に関するトロウの指摘は,とりわけ考えさえられる点が多い.表1にトロウモデルにおける経営に関係する3つの指摘を示す.

表 1トロウモデルの例

段階

エリート型

マス型

ユニバーサル型

社会と大学の境界

閉じられた大学

開かれた大学

大学と社会との一体化

大学の管理者

アマチュアの大学人の兼任

大学人が専任化

プロフェッショナル

大学の内部運営形態

長老教授による寡頭支配

教員と官僚による支配

学内コンセンサスの崩壊

外部の支配

マーティン・トロウ『高学歴社会の大学エリートからマスへ』(1976年)*1

まず,表1中の「社会と大学の境界」については,大学のオープン化についての予想であり,米国の実状をよく現している.大学のオープン化は,トロウがモデルを構築した1970年代から,米国においてはすでに大きな変貌を遂げつつあった分野である.そして,ユニバーサル型段階おける「大学と社会の一体化」は,2012年にブームとなった大規模オンライン教育コースMOOC(Massive Open Online Courses)等に見られるオープンエデュケーションの活動を予想していたようにも見える.高等教育機関のオープン化は十分な理由があり,高等教育機関にとって価値あるものという認識が米国ではかなり明確である.オープンエデュケーションはその延長上にある.

一方の日本の高等教育機関にけるオープン化は,行政も経営者も,そこに価値を見いだすことができず,さらにはオープンエデュケーションについては,わずかの例外を除いて,ほとんど顧みられることが無い.このため,後に見るように,日本の高等教育機関は折角の機会を失うこととなっている.

次に,表1中に示す「大学の管理者」は,この中では,もっとも示唆的である.まず,エリート型段階における大学経営はアマチュアの大学人がしかも兼任で行っていたとされている.それが,マス型段階では,アマチュアでありながらも専業化が進み,ユニバーサル型段階においては,プロフェッショナルの経営者が登場するとしている.この予想は,米国においては,ほぼ妥当している.今日の米国では大学経営はプロフェッショナルの仕事である.一方の日本においては,エリート型のアマチュアの大学人による経営という点はまさに指摘の通りであるが,今日に至っても,プロフェッショナルの経営者は登場していない.かつて横浜市立大学の学長を務めた経験もある,テンプル大学日本校学長のB・ストロナク[4]は,日本の大学には,経営者としてのプロフェッショナルが不在である事が大きな問題であることを指摘している.

なお,ここで,大学の経営に求められているのは大学経営のプロフェッショナルであって,他の事業ドメインにおける経営者としてのプロフェッショナル経験を問うてはいないという点は明確にしておかなければならない.近年多くの他業界の企業人出身者が高等教育機関のマネジメントに関わるようになってきているが,高等教育機関が価値を生み出すものは何かを理解しない限り,彼らもアマチュアに過ぎない.例えば,上述の「社会と大学の境界」としてトロウが取り上げた高等教育機関におけるオープン化の重要性は,他の事業ドメインとは,目指すべき方向が異なっている.後に述べるように,「自前主義」を前提とした日本的経営に慣れたドメインの経営者にとっては,オープン化が高等教育機関の価値を生み出すということを理解することは難しい.しかし,その理解無くしては,高等教育機関は,大きな機会損失を蒙ることになる.

最後に,「大学の内部運営形態」は,エリート型段階における長老の寡頭支配を指摘するが,この点は日米に共通している.これは大学がアマチュアの大学人により経営されてきたことと関係しており,アマチュアの大学人の兼務という体制の下では,大学運営が長老の寡頭支配になることは,むしろ自然な姿である.その後のマス型とユニバーサル型に対するトロウの説明は,今振り返れば不十分な説明であるが,マス型においては,長老の寡頭支配は無くなるものの教員の支配は続くという説明と考えることが出来る.これは,あたかも,日本における教員と事務職員の関係を示しているように解釈することもできる.一方,ユニバーサル型は,プロフェッショナルによる経営の下で,従来の学内運営は大きな変化を遂げるであろうことを象徴しているようにも解釈でき,現在の米国の状況を予想しているようにも見える.いずれにしても,エリート型における長老の寡頭支配がやがて失われてゆくという点に関しては,トロウの予想通りである.

以上の例に見られるように,進学率という単一のパラメータで,トロウモデルは驚くほど様々な事態を,ある程度の妥当性をもって説明している.ただし,その反面,モデルが単純なだけに,なぜそのような事態が起こるのかについての説明は十分では無い.

トロウモデルが成立する仮説として,高等教育機関の進学率の上昇に連れ,それまで大学を支えてきた国家的な財政支援が膨張し,やがては限界を迎え,その結果,大学に大きな変化が起こるためであるとされている.この説明は,米国にはよく当てはまるが,日本には十分当てはまるとは言えない.近年運営費交付金の削減が,国立大学を衰退させているという問題を日本も抱えるようにはなったが,それでもなお国の支援の上に日本の大学は経営されている.そのような状況にあっても,なお,トロウモデルに妥当性があるとすれば,改めてそれぞれの国における固有の背景を十分に明確にした上で,このモデルを受け止める必要がある[5]

日本における教員と事務職員のあり方について考えるときにも,トロウモデルは,教員支配に関してある程度の在り方を示唆してくれているように見える.しかし,なぜそのような結果が導き出されるかについては,ここに改めて検討しておく必要がある.

(続く)

参考文献

   [3] マーティン・トロウ(天野郁夫,喜多村和之訳).『高学歴社会の大学―エリートからマスへ』.東京大学出版会, 1976年

   [4]「機敏に自己革新を,外国人教員を教授会メンバーに」.日本経済新聞, 2013年8月11日付

   [5] 有本章.「高等教育の国際比較研究におけるトロウモデルと知識モデルの視点」.広島大学高等教育研究開発センター大学論集. 第 33 集(2002年度), 2003年

*1:本表作成は,「雑記帳」http://d.hatena.ne.jp/ced/20061229/1167407440, 2006年12月29日による