Seishi Ono's blog

Fugaces labuntur anni. 歳月人を待たず

大学解体と知の溶解-Open Educationがもたらす明日の大学-

はじめに

私は、大学でこの20年ほどをインターネット運用と調査・研究に費やして来 た。最近になっての、私の関心事は、2012年にはじまった新たなオープンエ デュケーションの波である。今回はこのホットな話題を紹介したい。 私は、今回の米国発のオープンエデュケーションの波が今後も持続するとすれ ば、以下のようなインパクトがあると予測している。

  • 教育のあり方の根本的な変革
  • 教育格差の著しい拡大
  • 大半の大学の消滅もしく解体
  • 知の体系の崩壊
  • 日本の高等教育機関に対する黒船

ただ、私は、こうした事態を必ずしも悪とは捉えてはいない。むしろ世 界の高等教育のあり方を大きく変革できる重要な機会と考えている。 しかし、同時に日本の高等教育機関がこうした大きな変革から取り残される ことは、日本の大学にとって大きな危機になりうるとも考えている。 ここでは、こうしたインターネット上のオープンオンラインコースの最新の動向につ いて紹介することにしたい。

MOOCの出現

インターネットの普及に伴って、教育のツールも大きな進化を遂げて、それに伴 う教育スタイルも大きな変貌を遂げてきた。こうした活動の第一世代が e-learningだとすれば、第2世代がMITの始めたOCW(OpenCourseWare)やマックス・ プランク・ソサエティによるオープンアクセスの運動などであろう。しかし、これらの世代の活動が高等教育に与えたインパクトは、かなり限定的 なものにとどまった。

ところが、ここ最近、そのようなあり方を大きく変えるか もしれない活動が米国を中心に広まっている。その活動はMOOC(Massive Open Online Course)と呼ばれている。 MOOCは、2008年に始まった活動である。その初期にはカナダではじまった小さ なオンラインコースだったが、数年で100万人単位の学生を集めて、一気に注目 された。この時期のMOOCでは、自分の通常の講義を、Wikiや twitter、 Facebookなどの既存のインターネットツールやSNSを利用して教員自身が、イン ターネット上に公開した。 手軽でなじみのあるツールを使う事で、公開のコストも受講生がツールに習熟 する手間も不要としたのである。本来は閉鎖的であるはずの講義をインターネッ ト上に公開した背景には、イリイチの「脱学校化社会」の哲学を実現したいと の彼らの思いに裏付けられていた。そしてそれは期待通りの成果を上げたので ある。

MOOCのビジネス化

こうした成功に目をつけたスタンフォード大学やMITそしてハーバード大学と言っ た米国のエリート大学は、これをビジネスに展開した。2012年を「MOOC元年 (MOOC of the year)」とニューヨークタイムズなどは呼んでいるが、この年の 4月、ほぼ時を同じくして、相次いで商用のMOOCが立ち上げられた。Sebastian Thrun等がスタンフォード大学の教員を辞めてまで立ち上げたUdacity、それに 対抗するように立ち上がったスタンフォード大学のCoursera、そして、OCWの次 世代のコースウェアMITxを開発中だったMITは、その動向を見て独自の開発を断 念し、ハーバード大学と連携してedXを立ち上げることを宣言した。この時期は MOOCにとって誠に熱い時期であったが、存外周囲の反応は冷ややかだった。

しかし、Courseraが開始間もなくの6月に150万人の学生を集めて成功を見せると、 様相は変わりはじめ、米国の中小の大学連盟であるACEは、CourseraやedXを受講 すれば単位として認定するとの決定を行った。当初は、MOOCに批判的だった世 界各国のオープンユニバーシティ(放送大学)においても、他人事ではなくなっ てきた。英国のオープンユニバーシティが独自のMOOCであるFuturelearnを 2012年12月から立ち上げると宣言したのである\footnote{その後英国オープンユ ニバーシティは世界のオープンユニバーシティの連合から脱退すると報道された}。 翌2013年1月にはカリフォルニア州が公立大学のコスト削減を狙ってUdacityの コースを購入すると発表した。ここにコスト削減とMOOCの関係が初めて明確に 打ち出されたことになる。

MOOCの活動はその後も成長を続けている。Courseraでは、2013年1月には受講者が 230万人を超えたと報告している。 当初「今までこの分野では多くのプロジェクトが失敗してきたが、今回のプロ ジェクトも成功しない」とささやかれてきたMOOCがわずか一年足らずで強大な パワーを持つようになってきたのである。 \subsection*{万人のための教育という虚構} MOOCの一つであるCourseraの創立者の一人Daphne Kollerは、自分たちの目標は Higher Education for Everyone 「万人に高等教育の機会を与えること」と述べてい る。

従来、貧困や障害、家庭の事情といった様々な理由で高等教育の機会を奪われ てきた人々にとっては、これは言うまでもなく恩恵である。今までスタートラ インに立つことさえできなかった人々が、スタートラインに立つことができる ようになった。しかし、同時にそこから先は本人の努力と能力にかかっている。ある種のハン ディを言い訳にすることはもはやできない。結果だけが全てになる。能力の格 差は歴然となり、大きな格差が白日の下に晒される 教育する側はもっと厳しい状況に立たされる。教えることがオープンになり、 歴然とした評価を学習者から受けることになる。現在のように限られた施設で 限られた学生を教えるのであれば、必要であった多くの教員は、競争の中で淘 汰されることになるかもしれない。

この限りでMOOCは、万人を幸福にするものでは無く少数の勝者を産むものでしか ない。教育版グローバリゼーションの一面を有している。

伝統的大学の存在意義の喪失

MOOCは何を変えようとしているのだろうか? 第1には、カリフォルニア州の動向にあるような、大学運営上のコスト削減であ る。オンライン上ですぐれた教育成果が上げられるのであれば、どの大学にも共 通の講義である数学や基礎的な統計学、物理学などのコースはもはや自分の大学 では不要となる。商用のMOOCの目標の一つはここにある。

第2には、学ぶ側にとって今や深刻な問題となっている、高騰し続ける世界の大 学の学費への一つの回答になると言うことである。MOOCが単位として認められ、 さらには学位まで発行できるようになると、推定で通常の学費の3分の1程度での 学位取得が可能になるといわれている。

第3には、上記2点と関係するが、初期のMOOCが目指していた大学の「脱学校化」 である。MOOCには教室も高価な施設も不要であるだけでなく、オンライン環境 があれば、世界中どこでも授業を受けることができ、学位まで取ることができ る。貧しい国で教育機会に恵まれない人たちにも大きなチャンスが生まれる。

オープンエデュケーションにおいては、大学という空間はもはや不要である。そ して、低コストで質の高い高等教育が受講できるようになる。オープンユニバー シティも同じように施設らしい施設を持たないが、既存の大学の一部として位置 づけられてきた。しかし、MOOC はあからさまに既存の大学を置き換えようとする 活動といっても良い。 MOOCの下では、従来の大学の大半は不要になる。

教師という職業の消滅

MOOCの下では、教員として生き残ることができるのは研究者として優秀な教育 者だけである。単なる教育者で生き残る者があるとすれば、それは非常に優秀 な教育者に限られるであろう。

MOOCに開講されている教員構成からもこのことをうかがい知ることができる。 日本でMOOCの最初の講義をするのはノーベル賞候補と言われる東京大学の村山 斉である。

教科書の講義しかできない教員のいる場所はどこにも無い。すぐれた教科書が 一冊あって、その教科書の作者が講義すれば、それで事は足りるから である。よほどのことが無ければ、それをさらに別の誰かが教える理由はもは やない。 座学での講義は全てオンラインで置き換えられ、この分野の教員はわずかの数 だけ居れば良いことになる。その結果は、社会的コストを大きく下げることに なる一方で、現実に大学で働く教職員にとっては、これは大きな危機である事 は間違いない。

ただ、そのような事態になれば、既存の教員は黙ってはいない。ドラッカーに 言わせれば、「教育改革にとって最大の障害は教員である」という事態が出来 するだろう。 現に、オープンエデュケーションと教員との衝突はカリフォ ルニア州で起きている。ハーバード大学のマイケル・サンデルの 哲学講義を配信をしようとしたところ、哲学を教えている教員たちが反対をし、 講義配信ができなかったのである。 反対の理由は、自分たちが失業するからというものであった。

授業料徴収という仕組の崩壊

オープンエデュケーションの仕組みで、私が注目している問題がもう一つある。 それは授業料徴収の仕組みである。

西洋中世期における最初の大学は、11世紀後期頃に成立したイタリアのボロー ニャ大学と言われている。ボローニャ大学は、Univesitas(組合)の名の通り、 学生がお金を出し合って教員を呼び後から謝礼を払うというシステムだった。 12世紀に成立したと言われるフランスのソルボンヌ大学は、反対に教員が学生 を集め、事前に学生から授業料を徴収するシステムだった。いずれも13世紀に は、ローマ教皇からストゥディア・ゲネラリア (studia generalia) として認可 されることになりこれが今日の大学の起源となるのであるが、それ以降の大学 は今日に至るまで、授業料徴収については、ソルボンヌ方式になっている。

オープンオンラインコースは、学習者たちが学習を終え、試験に合格した後、 希望する者はお金を払って修了証をもらうモデルである。高等教育機関におい て、前払い方式から完全後払い方式への数百年ぶりの変革が起きたと考えられる。 オンラインエデュケーションでは、気に入った学生が授業料を支払うだけであ り、そのために魅力ある授業を提供しない限り経営は成り立たない。反面、学 生たちに投資するコストは極めてわずかで済む。

しかし、従来の大学は、昔ながらの授業料前払制度から脱却することはできな い。後払いは、インターネットの特性を活かし、多くの参加者がいて初めて成 立する仕組みだからである。 授業料後払いという仕組みは、一件小さな事のように見えて、大学経営に与え る意味は、実は大きい。従来の前払い授業料で運営する大学は、品質と価格に おいて果たしてこの新たな出現相手との競争に勝てるかどうかが問われている。

知の体系の溶解

コンピュータ登場以前には、Concordanceと呼ばれる学問領域があった。聖書や シェークスピア全集などの用語索引を丹念に作成する作業である。しかし、今 日では意味の無い作業になってしまった。 インターネットの検索エンジンが発達した今日では、事情はさらに深化して、 我々は、かつては教養の一部を形成していた知識そのものを余り持たなくても 「グーグル先生」に聞けば済むように なった。 これを軽佻浮薄などと呼ぶべきでは無いと私は思っている。digital native と呼 ばれる、生まれながらのインターネットの利用者にとって「教養」の持つ意義は、 我々の時代と大きく変化している。

オンラインコースの受講者を観察すると、我々は、そこに学習者の興味深い行 動に出会う。多くの学習者は、オンラインコースを1分も見ると見飽きてしまい、 次のコースや次の回に移ってしまう。 しかし、それで飽きてしまったというわけではない。そのようにして得られた 断片を彼らなりに組み立て、自分なりのコースを作ってしまっているのである。

そこに教養や知に対する深い意義が認められる。教師が意図したオンラインコースを越え、学習者自身が独自のコースを作り上 げるという行動は、我々の調査でも共通してみられる学習者の行動である。 学習者は学習者なりの知的体系をimplicitに有しており、そこに必要な知識を 蓄えていると考えても良いかもしれない。教養とは、こうして学習者がどのよ うな独自の知的体系を持つかということを意味するようになってきている。

ここまで考えてくると、体系的な知識というものの意義が問われていることに 気づく。ヘーゲルでさえも個人的な知的体系の一つの表現に過ぎないのかもし れず、何よりも知的体系とは物事を整理し知のINDEXを作成する作業と見なせば、 知の体系はConcordanceと同様に、オンラインコースの中で無用の長物と化して しまうものなのかもしれないと考えることもできるのである。 知の体系は、断片的な知識へと溶解し、知の結合は検索エンジンを通じて実現 される、という謂わば知のアウトソーシングの徹底化が、オープンオンライン コースの下で進むことになる。

大学の解体

40年前の学生運動が掲げた大学解体は、今日では死語になってしまってい るが、Open Educationによって知の溶解が進み、教師の役割は、情報の伝達に 止まり、学習者が自身の知的なしかし極めて個人的な体系を構築して行くとい うプロセスが進行すれば、従来の大学のあり方は当然に大きく変貌する。 単なる知的な情報伝達に過ぎないような一般講義は意味を失い、体系的なカリキュラムもそ の意義を失ってしまう。

1970年代のベビーブームが終わった米国の大学存続の危 機を分析したMartin Trowは、大学の進学率が50\%を越えた状態をユニバーサル アクセスと呼んだ。その段階では大学のカリキュラムが崩壊すると予言したのだが、その本当の意味は今日の段階になって初めて明らかになったと言えなくも無い。 多くの教員が失業し、大学の多くが消滅する危機が目の前にある。 大学という従来の概念からは考えられない新たな世界がそこに広がることになる。

ガラパゴスの海を襲う黒船

私は、知的体系が溶解し高等教育機関のあり方が大きく変わるという点につい ては、憂慮していない。 digital nativeな世代にとって知的体系など意味が無 いと言うことを私は理解する。大学の解体も恐るるには足らない。必要な大学 だけが必要とされる姿で残るだけのことである。学習者にとってはむしろあり がたいだろう。

しかし、日本の高等教育機関の実情にはいささか憂慮する。日本語という非関税障壁の内側でガラパゴス日本は眠り続けている。大学の解 体などあり得ない、と誰もが信じて疑わない。それが今の日本の高等教育機関の 実情である。ガラパゴスの平和がいつまでも続くことを願いたいが、インターネットの下で は国境も言語も軽々と乗り越えられてしまう。その日が来たときに日本の高等 教育機関はどうなっているのだろうか。ここまで世界の動向に無感覚で無防備な日本の高等教育機 関の対応を見ていると、何の備えも無いままに黒船が来たときには、何もでき ないことだけは確かである。

西暦2000年問題の教訓

最後に、全くの余談になるが、私のOpen Educationへの憂慮は、十数年前に騒がれた 「西暦2000年問題」の時と似ていると思うこともある。まだ西暦2000年問題に人々が驚くほど無関心だった頃、学長に就任して間もな いS学長にこの問題を報告したことがある。当時の英国からのレポートでは、 西暦2000年問題で世界が崩壊するかのような記述になっていた。先生は一 笑に付されて「こんな事で世界は崩壊しないよ。」とおっしゃって、しかし、 その一方では何が起こりうるかについては継続的に私にレポートを求めたもの である。 私がS学長にご相談してから数年してから、ご承知の通り日本でも西暦2000 年問題は過剰なほど大騒ぎとなった。

もちろん、西暦2000年問題で世界は崩壊せず、むしろ、我々は、西暦2000年の 正月を静かに迎えることができたが、ただ、その蔭でプログラム上では数多く の小さな問題が発生した。我々も大学の中でその対応に追われることもあっ た。そうした対策があればこそ、エンドユーザはこの問題に気が付くことは無 かった。この西暦2000年問題で大騒ぎをした技術者たちの事を、私は苦い想い出として 持っている。彼らは技術者として十分一流だった。彼らの技術的予測が外れた ことなど滅多になかった。しかし、未経験の事態については、技術的予測は極 めて不確かなものになる。

私自身はといえば、これこそS先生とそのゼミに感謝しなければ行けないこ とであるが、私が多少なりとも社会科学的なセンスを身につけていたことが、 他の技術者にありがちな過剰な心配から私を救ってくれた。世界崩壊という大 げさな心配はしなかったが、しかし、一方、技術者としてのプログラミングの 知識から推論すれば、それなりの事故があってもおかしくは無いと思っていた。 結果としては最初の私の心配は、それでもいささかの杞憂だったかもしれない と思うことがある。

この時の最も優れた判断は、S学長の「何も起こりはしない」といいながら、 それなりの配慮も忘れなかった絶妙のバランス感覚だったとも思っている。そ のお陰で、大学での西暦2000年問題を極小化できたのである。

その反省に基づけば、Open Educationについても、大したことは起こらないと いう疑念が頭をよぎらぬでは無い。ただ、何もしなければ大きな付けがまわっ てくると言う教訓が、西暦2000年問題にはあることも忘れるべきでは無い。 また、今起こっている事象は技術的予測を求められているわけでは無く、努め て社会的な現象である。この点は西暦2000年問題とも異なっている。

今度も私の杞憂で済むのか、あるいは大変革の波がやってくるのか。私も間もなく現役を離れる。これから Open Educationが実際に何をもたらすか を私は興味深く眺めている。

(櫻井ゼミ同窓会誌『対話』第2号 2013年8月24日発行 所収)