Seishi Ono's blog

Fugaces labuntur anni. 歳月人を待たず

統計のウソ

ずいぶん昔、まだ高校生か大学生になりたての頃にブルーバックスの『統計でウソをつく法』という本を読んだことがある。統計学の知識も全くなかったので実のところ良くわからないままに済ませてしまった本の一つである。

後年、少しだけ統計を扱う機会が増えて、この統計の嘘ということにずいぶん考えさせられる機会があった。自分の拙い経験からすれば「統計が嘘をつくわけではないし、人は嘘をつこうと思って統計を持ち出すわけでもない。ただ解釈は多様にあり得る。」と私は思っている。先のブルーバックスの本は、「どうやったら嘘をつけるか」という視点から書かれているだけというように思えるが、実は良く読めば、統計を誤解なく捕らえるためのノウハウが書かれている。

古典的な統計学者たちは極めて厳格な検定条件を定めてそれをパスしなければその統計結果を捨ててしまう。統計の嘘はそうしてある程度は排除される。私も最初はそうすべきだと強く思っていたが、行動統計学と呼ばれる分野では、そのことを重々知った上で、しかし、統計で得られた結果を易々と捨てるべきではないという考えているラジカルな研究者が存在する。そして、私が社会的な事象に統計をあてはめなければならないという作業をした経験からすれば、行動統計学のこのようなラジカルな考え方に納得できる点がたくさんあることに気づいた。実際厳密な検定をパスした結果というのは結局退屈な結果でしかない、検定結果は必ず示して相手に解釈をゆだね、大胆な結果を提示するというのは魅力的な研究を生み出すはずである。

ただし、このような行動統計学的な見地からすれば、統計的に得られた結果は立場によって多様な解釈を許すということも容認しなければならない。しかし、多くの社会的な現象を研究する研究者たちは、統計的な結果だけから議論しているわけではなく、多くの場合傍証として統計的な結果も添えるという場合がほとんどと考えられるので、この点はあまり困らない。

一方、医療の分野のように人の生命身体に関わる問題となるとこれは許されない。例えば、医薬の世界では、厳密な検定をパスしなければ統計の結果を採用されることはないだろう。ところが医療でも社会的な事象を扱わなければならない場合には、これだけではうまく処理できない。

私は、ちょっと不整脈があり、かつ最近血圧が高いと言われたことがきっかけで、不整脈や血圧に関する統計結果を眺める機会があった。高血圧の影響は、同一の人間を数十年間観察した結果を集計しなければならないので、データ量ははなはだ少なかろうということはすぐに想像がつく。ところが、同じ循環器系でも心筋梗塞などに結びつく不整脈の統計などは、処方結果が短期で現れるのでこれよりは多くのデータが手に入れられそうである。

そういうわけで両者の結果の比較は、私にとっては興味深いものがあった。不整脈はコントロールしようとすると破滅的な結果をもたらすケースが多いが、高血圧はコントロールしても破滅的な結果をもたらさない。だから医者は私の不整脈は放っておいても良いが高血圧はコントロールしろと指導する。

これはこれで正しいのであろうが、なぞは色々残る。特に血圧に関する長い時間をかけた、その結果社会的な様々なかく乱要因を含むに違いない統計結果をどう解釈するかは、かなり難しい問題を含んでいるはずである。

統計的な結果に頼らなければならないのはいつの場合でも他の方法ではその原因がわからない場合に重宝される。高血圧はその最たるものではないかという気がする。そこに解釈の余地があると医療はそれを巡ってゆらいでしまうだろう。

例えば、「血圧はコントロールすべき」という議論は、いくつかの大規模臨床試験結果から容認されているようであるが、どこまで下げるかはWHOなどで明確な定義があるにもかかわらず議論を呼んでいる。それはWHOなどの基準が改訂される度にどんどんその値が引き下げられているからである。

なるほど、統計の結果を見ても、素人判断ではあるが、どうやら有意な結果を得られた項目は限られているし、ましてやその結果が社会的かく乱要因を完全に排除しているとは言い難いようにみえる。そこで、引き下げられる理由には、「製薬会社の陰謀」という説が流布されるのもその限りではうなずけるし、そうした陰謀説を覆すような確実な結果を示すことは一般には難しいように私には思える。

とはいえ、なるほど私も歳をとって保守的になった。高血圧やメタボリックシンドロームを巡って製薬会社が暗躍し厚生官僚が無能な判断をしているなどと聞けば、昔はそれだけで納得し憤ったものだが、しかしそんなに事は単純ではないと最近は考えるようになった。高血圧の基準を引き下げることは、確実に製薬会社に莫大な利益ともたらすということは否定できないし、結果として基準値に製薬会社の思惑が絡んでいることを否定することはできない。しかし、一方医療に携わる人々の予防に関する思いもそこには含まれていると考えるべきなのである。

ただ、それぞれの思惑はともあれ、もう少し検討すべき点はあるだろう。長期的な降圧剤の使用は循環器系の死因を減少させるが、全死亡率はどうやら有意には高くならないように見える。あるいは逆に上がるとさえする結果もある。臨床試験の期間が数年のものが中心でそもそも20年以上の時間をかけたものが見かけられないのも気になる。また、本来必要があって体が高い血圧を維持しているのに降圧してしまうことで、問題を発生させてしまうこともあるのではないかという仮説もあるようである。

血圧が収縮期で常時160mmHgを越えるような症状は緊急避難として降圧しなければならないことには医療関係者の間で異論はなさそうであるが、WHOの140mmHG以上を高血圧とするのには多少なりとも異論が出てくるというのが現状らしい。

医療対象は待ってはくれないのだから、悪い結果がでなければその方針で治療するというのは仕方のないことである。それだけに、自分が不整脈や高血圧になっても、どうすべきかは自分で判断しなければならない。それが素人判断でも。誤っていても。若くして亡くなった私の友人は癌治療に革命を起こすべく自家療法で治療しようとして結局命を落とした。それは誤った選択ではあったが、愚かな選択だったとは思わない。私も私の年齢なりの判断で自分を律するしかないと最近思う。

歳をとって気づいたのは、こうした考え方の変遷である。若い頃はその単純さ故に新しい変革を起こすことができる。無鉄砲を繰り返して苦い経験を積めば、より広い視野がもてるが、今度はせっかくの変革の機会を見逃すことになる。つまりそれが保守的と言うことだ。アインシュタインは量子力学を最後まで受け入れなかった。ファインマンほどの奇抜な天才でも晩年は超ひも理論には否定的だった。それが彼の深い経験に基づいているということは彼の自伝を読んでも伝わってくる。ただし、アインシュタインと異なってファインマンに限って言えば、もちろん今でも彼の見解が誤っていたことを証明することはできないが、もっと若ければきっと飛びついていたに違いない、と思うのは私だけではあるまい。


統計でウソをつく法―数式を使わない統計学入門 (ブルーバックス)

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