Seishi Ono's blog

Fugaces labuntur anni. 歳月人を待たず

「労働力商品化の無理」の限界

先日久しぶりに恩師の研究会が行われた。偶然にも、先日来気になっていた、宇野弘蔵の恐慌論が話題になった。

恩師によれば、恐慌が、好況によってリソースを食い尽くした結果として起こるということは言えるだろう。しかし、そのリソースが不足する原因は、ただ労働力商品化の無理に還元される、という宇野の見解には若い頃から御念を感じていたのだそうである。

なるほど私たちが恐慌論を研究することを好まなかったのはそれだったのか、と30年ぶりにその秘密を聞いたことになる。それだったら、早くにそうと言ってくれればとも思ったが、時代はそれを許さなかったし、そう言われても我々も素直には聞けなかったかもしれない。

還元主義は、自然科学においても毀誉褒貶が激しいが、物理学者のホーキンスなどは「私は恥ずべき還元主義者だ」と常々主張している。還元主義はきれいな結果をもたらすことが多いからである。それ故、すべてが労働力商品化に還元される宇野の説明は確かに魅力的なのである。

現に当時同じ研究室にいたS君が、先日の研究会で、それは聞き捨てならないとばかりに抵抗していたのが印象的だった。時代はまだこんなことでも受け入れがたいと思わせる人たちを残しているのだ。

しかし、宇野弘蔵の理論の中からいったん労働力商品化などということをすべて忘れて虚心坦懐に経済原論の議論を追ってゆけば、いままであれほど難問と思われていたいくつかの問題は、すべてきれいな理論で説明がついてしまう。さすれば労働力商品化論無き宇野理論は、現代の経済学にとって有用な理論となり得る余地が今日においても残されているように私には思われる。還元主義の善し悪しは別として、労働力商品化を除いても還元されるべきものは原論上でやはりある。

私は、そう気づいたが、私の時代ではもはやない。労働力商品化を捨ててなおかつ宇野理論を継ぐひとは今後あらわれるのだろうか?