Seishi Ono's blog

Fugaces labuntur anni. 歳月人を待たず

価値論の再考

最近、AI屋さんの中でも経済システムのシミュレーションを研究対象にする人たちが出てきて、そういう人たちは、商品、貨幣、交換といった概念を改めて考え直さなくてはいけないという場面に立ち入っているように見える。

私もその初期の頃の研究に関わったのでわかるが、エージェントシステムで経済を表現しようと思うと最初に悩むのが交換である。

私は若い頃から古い経済学を学んできたので、経済学の立場でもそうした問題はいつも目の前にあったが、しかしきちんと考えてきたことはなかったように思う。

マルクスは、資本論の最初で価値形態論なるものを展開して交換の原初的な意味をあきらかにしたと言われているが、実のところ私の恩師はこの議論に懐疑的であったこともあり、私もこの部分にはいつもわだかまりがあった。

交換と言っても資本主義のメカニズムを前提にした交換なのであって、アダム・スミスやリカードが考えた一見原始社会のモデルにも通用するようなビーバと鹿の交換を例にして一般的な交換のことを考えるというわけではないはずであり、資本主義を前提としない一般的な交換とはいったい何なのかということをもう一度考える必要がある、というのは資本論の研究者たちの中にも指摘する人がいる。

私は、AIのモデルでは、交換を実現するためにはブラックボードシステムが大変便利だということに気づいていたが、これはまたワルラスモデルと等価でもある。しかし、いきなりそこにジャンプしないで、より原理的な、工学的に言えばエージェントの実装に関わる部分をきちんと検討しなければならないという立場が、経済学的に言い換えれば価値論なのだろうと私は勝手に思っている。

さて、そうしたところで、価値論はどの程度必要なのだろうか。エージェントの実装に関する部分が不要なわけはないけれども、価値形態論のように考えるのはいかがなものかという気が今の私にはする。

若い頃は学生運動も盛んな時代であり、それでも資本論に懐疑的なマルクス研究家はいたけれども、さすがに価値形態論を否定する人はいなかった。そういう時代が終わったときに、価値論を再考することは、経済学の上でも工学的にも意味があると私は考えている。

純粋経済学要論―社会的富の理論

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