Seishi Ono's blog

Fugaces labuntur anni. 歳月人を待たず

中世の大学とオープンオンライン教育の学費徴収システム

西洋における最古の大学はイタリアのボローニャ大学と言われている。私のおぼろげな知識では、この大学は、元来の意味での「ウニベルシタス」すなわち組合として、学生たちがお金を出し合って教員を招聘したと言われている。これに対して、パリ大学は教員が学生たちを集めお金を徴収する仕組みだった。いずれも13世紀に神聖ローマ帝国からストゥディウム・ゲネラーレとして勅許された9大学の内の一つである。

やがて、大学の運営は、学生中心のボローニャ大学方式から教員中心のパリ大学方式へと移っていった。なぜなら、大学の運営としてはパリ大学方式が遙かに効率的だったからだ、と私は想像している。

時代が変わって、現代のオープンオンラインコースは、この13世紀以来のパリ大学方式の運営に変革を迫っているように私には思える。

MOOCに代表されるオープンオンラインコースは、学費を取らない。ただ、コースを修了した者が修了証を必要としているときだけお金を払えば良い。つまり学費は前払いでは無く後払いなのである。

このような運営方式では、従来の学校経営は成り立たないことはあきらかである。学生からの学費の徴収効率が著しく悪く、経営できないからである。オープンオンラインコースであれば、コスト増がほとんどなく数十万人単位の学生を対象にすることができるため、多少の徴収効率の悪さは気にならない。そのような仕組みの上で初めて成り立つビジネスと言える。この限りではMOOCは大変革新的である。

ただ、このような運営方式でも、余りに学費徴収の効率が悪い場合には、やはり経営は厳しいものになる。案の定というべきかedXのコース終了率は10%を下回り、修了証枚数は数千枚に止まっている。

このため、このフォールアウトの余りに大きいことが現在のMOOCの課題の一つと言われている。

しかし、ここでフォールアウトの意味するところをもう一度再考してみよう。これは要するに学生がある教員の授業を受けたけれども、何らかの理由でコースを中断してしまったことを意味する。フォールアウトが大きければ教育方法やシステムに何らかの問題があった可能性が指摘される。

この発想は13世紀のパリ大学方式の運営の中でこその発想に過ぎないのかもしれない。それ以前のボローニャ大学方式であればどうだろう?学生は気に入った教員を呼んで、皆で共同してそれに対価を支払う。フォールアウトは教員の側がするかもしれないが、コースを仕組んだ学生たちは、むしろ授業やシステムに責任があることになるだろう。つまらない教員は二度とよばなければ良いだろうし、あまりにつまらなければ追い出せばよいのだ。

新しいオープンオンラインコースでこのような中世ボローニャ大学運営方式を再考しても良い時期に来ているのでは無かろうか?すなわち、オープンオンラインコースは、その性格上学生数などから導き出される通常の大学における経済効率性から自由だとすれば、発想を転換して学生主体の運営というものを可能にするのでは無かろうか?

最近教育方法論ではflipped classromというのが流行っている。本来の授業は家庭で行い復習を学校でやるという意味でのあべこべ授業であるが、先生と生徒が入れ替わる、学校の運営そのものをflippedさせる発想が無ければ、本当の意味でのオープンオンラインコースによる革新は起きないかもしくは継続できないと私は思っている。

 

 

NetBSD on VMware Fusion 5

VMware Fusion 5

VMware Fusion 5


ひょんなことから、いつも使っている Mac Book Pro のRetina モデルにVMware Fusion5を入れてみた。
このVMwareは、ちゃんとRetina対応になっていて、なんとなくうれしい。

まず、Windows8を入れてみたが、もちろん問題なく動く。Windows系はしばらくご無沙汰な上に、このLook & Feelでは、なかなかオペレーションには苦労した。まあ、このあたりは想定の範囲内である。

つぎにUbintu12.04を入れてみた。問題なく入るのだろうと思ったが、そうでもない。インストールが終わって、ログインしようとするとパニックする。しばらく悩んだが、VMwareのディスプレーの設定が3Dモード有効となっていたので、これを切ったら問題なく動作した。

これが、去年の暮れの話しである。さて、しかし、2つ入れてみたが、実際に使ってみようという気にならない。ちょっといじってすぐ飽きてしまった。

それで、これもまた思いついてNetBSD6.01を入れてみる気になった。NetBSDなど2.0位から触っていないような気がする。これがこの連休のテーマである。インストールは問題なくできた。X-Windowも問題なく動く。3ボタンのエミュレーションもコントロールキーとコマンドキーを押すことで実現しているのだと、この時初めて知った。

それにしてもである。インストール手順から、Xが動作してタブウィンドーマネージャーでxtermとxclockがあらわれるところまで、20年近く前と余り変わっていないのにも感心し、懐かしい気分に浸れた。これだけでもVMwareとNetBSDに感謝したいところだ。

しかし、日本語入力をanthyにしようと思い、さらにSCIMを入れてみようと思った当たりからおかしなことになる。そのためには結局Gnomeも入れた方が良いという話になるからである。これをソースからコンパイルする。さすがに6時間くらいはかかる。やっと入れたと思ったら、Gnomeが立ち上がらない。

dbusを動かさないとダメだと言うことにしばらく気が付かなかった。/etc/rc.localに


if [ -x /usr/pkg/bin/dbus-daemon ]; then
mkdir -p /var/run/dbus
echo -n ' dbus'; /usr/pkg/bin/dbus-daemon --system
fi

と入れておく。このあたりもかなりレトロである。

VMware-toolsもopen-vm-toolsとか入れておけば良いようだ。
などと、遊んでみたが、結構楽しめるものだ。

VMware daemonも同じく /etc/rc.localに


if [ -x /usr/pkg/sbin/vmware-guestd ]; then
echo -n ' vmware-gusted'; /usr/pkg/sbin/vmware-guestd --background /var/run/vmware-gusetd.pid
fi

とか書いておけばいいようだ。

ついでにfirefoxとか入れたらどうなるだろう。なにせソースから入れるのだ。と思ったらこれも数時間で終わった。

調子に乗って、libreofficeとかもコンパイルしようとしたが、夜が明けても終わらない。まあ、2,3日かかりそうだ。

それにしても病気だな、と我ながら思う。

マイクロレクチャーという講義形態


マイクロレクチャーカーンアカデミーで評判を取って、最近ではUdacityなどでも採用されている1分単位のレクチャーである。1分で講義をするのはかなりチャレンジで実際にはもっと長い単位でのレクチャーもマイクロレクチャーと呼ばれている。

数学の専門家に言わせると、数式を1分間では説明できない、15分は欲しいという。なるほどその通りだ。カーンアカデミーでも統計学などは30分くらい使ったのもあり、カーンさんのこの柔軟な所もまた良い点かもしれない。

しかし、Udacityはなかなか徹底している。統計学をどうしているのだろうとと思ったら、ビデオの連続再生機能を使って数十秒単位の説明をつなぎ合わせている*1。これもこれで工夫である。Youtubeでみるとちょっとくらくらするが、専用のLMSでならストレス無く見えるだろう。

Udacityがここまでマイクロレクチャーにこだわっているのは、おそらくこれを国際化対応するときなどの加工を容易にするためという狙いもあるのでは無いかとも考えられる。

また、マイクロレクチャーの話を聞いて「確かに研究者は、3分で自分の専門を語りきれなければならない」といった研究者の方もいたが、それも一つの見識である。

マイクロレクチャーからもまた新しい教育の世界が広がって行く可能性は十分あるのだが、日本においては、これもまだまだ萌芽段階でしか無い。

日本語という非関税障壁が、米国の高等教育機関の劣化コピーに過ぎない日本の高等教育機関の教育をしっかりと守っているように私には思える。


Welcome - Intro to Statistics - Teaser - Udacity

*1:もっとも全ての講義にそれが適用されているわけでは無い。むしろ実験的な挑戦なのであろう

MOOCを新しい革袋に入れる

MOOCは、イリイチの「脱学校化社会」の理念から出発して人気となり、膨大な受講者を集めたところで、ビジネスになった。

このビジネスを成功と評価するにはもう少し時間を要するが、急速な展開のなかで、まだまだ精度をあげなければならない部分がある。

例えば、Courseraでは、学生5人の学生を組にしてレポートのPeer Reviewをさせるが、エリート大学で入学試験を越えてきた学生同士がやるのなら可能でも、オープンオンラインコースには本当に馴染むのか?などの議論は、今でもあり、ここではまさに新しい教育成果がどのようなことになるのか興味深いところである。

一方、LMSやチャットシステムも大規模オンラインコースに適合したシステムになっているかどうかは、議論の別れるところであろう。

見る限りどのxMOOCも同工異曲のLMSやSNSチャットシステムであり、あっけない感じさえする。

一方のcMOOCが、そもそもシステムなどには頓着せずに、Twitter、Facebook、Second LifeのようなSNSやMoodleのようなお手軽なLMSを使って授業展開をしたことを考えれば、そもそもxMOOCのようなシステムそのものの必要性も問われて良いのかもしれない。

ただ、新しい酒は新しい皮袋に入れるものだという聖書の教えからすれば、どちらの革袋もはまだ改良の余地があるだろう。

我々の狙いが正しければ、ここにも革新を起こせる余地はある。

Web2.0の先へ

Web2.0を言い出したのは、Tim  O'Reillyであり、調べてみるとこれは2004年のことだったようだ。瞬く間にこの言葉はバズワードになり、たくさんの○○2.0のバリエーションが生み出された*1。まことに便利な言葉だったわけだが、もう8年も経ってしまってそろそろドアを閉じるときではなかろうか。


Tim O'Reilly on What is Web 2.0?

Web2.0はYahooやGoogleに代表される優れた検索エンジンのおかげでWebの世界に革新が起こった事がベースとなっていると思われるが、結局それは豊富な資金力に支えられ、internet特有の一人勝ちビジネスに貢献した。利用者の利便性は確かに夢のように向上したので、それは利用者とGoogleのWin-Winの時代であったと言える。

しかし、結局は莫大な資金のあるものが常に一人勝ちするというInternetの陳腐なパラダイムがいよいよ明確になってしまったという気がしないではない。Windowsも斜陽ならば、Appleも危ういことに今はなっているように見える。

しかし、次の時代はもうそこまで来ている。そもそもWWWという技術そのものがTim Berners-Leeが1989年にそのアイデアを思いついてから20年以上経っているのである。Internet上のユーザーインターフェィスは次の時代に入る頃ではある。

Webの仕組みそのものは無くならないが、そこに画期的なUIが付加されることで全てが変わって見える。我々はそれをe-bookと予想し、それをe-portal2.0というなんとも陳腐な名称をつけてみたが、どうだろうか。そもそも○○2.0と銘打った段階で既成の枠内にしかいないことを吐露したようなものだが、それはご都合主義になって一旦脇に置いておく。

AppleのiBook Authorは、どこまで意識的かわからないが、それを見据えたツールのように見える。まあ、これも歴史が答えを我々に教えてくれるだろう。

それよりも気になるのは、e-bookかどうかは別として、次の時代もまたこうしたInternetのツールは、一人勝ちのための道具に化すのだろうか。そろそろそういうパラダイムさえも崩れそうな予感はあるのだが。

もっといえば、internetの一部であるInternet自身の限界も次の10年では見えてくるかもしれない。IPV6はいけていないし、この先どんな新しいパラダイムが登場するかは予断を許さないし、まあ、それだけでも老いの楽しみではある。

*1:かくいう私もe-portal2.0という言葉を考えたのだった。そして、その時e-をつけざるをえなかったのは、portal2.0はすでに台湾の会社が使ってしまっていたからである。

ハーバートノーマンの安藤昌益

忘れられた思想家〈上巻〉―安藤昌益のこと (岩波新書)

忘れられた思想家〈上巻〉―安藤昌益のこと (岩波新書)


ハーバートノーマンの安藤昌益を読んだのは高校生の頃なので、もう45年も前のことになる。時代の流れるのはあっという間である。再版され、それも絶版になりかけていたのを慌てて買って読み始めたが、昔を懐かしく思い出すとともに、昔は見えなかった話しが見えてくるのは少しは大人になったからだろうか。
ハーバートノーマンは、カナダの外交官でありながら、日本で恐ろしく珍しい者を研究し、やがてスパイの嫌疑をかけられエジプトで自殺した。40年前にはわからなかったことで、今は判明していることの一つとして、ノーマンはほぼ確実にソ連のスパイであったと言うことである。だからといって彼の日本研究が曇るわけではない。
彼の英語を何度もおさらいして英文の達人になったという逸話は、丸山真男のこととしてうろ覚えに覚えている。私も一つ真似をしてノーマンのJapan's Emergence as a Modern Stateを買って読んでみようと思い立ったものの、5分で挫折したことも思い出の一つにある。
ノーマンは、素朴な西洋主義の目線にならないように彼は日本文化について懸命に考えたと思うのだが、それでも西洋的であることはしかたが無いし、それによって新鮮な発見がもたらされるのであればそれも一つの成果だろう。
例えば、ノーマンは、昌益を封建社会の最大の批判者としているが、今の目線で見ると徳川時代は別に封建社会では無かったので、少し叙述に無理がある。しかし、西洋的な解釈でそこを乗り切る当たりは、水際だってもいる。安藤昌益研究はノーマン以来山のようにあるので、別に僕はそれが本当に正しいのかどうかを気にしなくても良く、それよりも、懐かしい手触りの語り口を楽しむだけで良いだろう。
若い頃には、昌益が、聖人と仏陀を口を極めて非難し、しかし、それを気取られないように慎重に振る舞ったとあるのが当時はなかなか共感したところであるが、あまりにも禁欲的な主義主張は、今の目で見るとごめんなさい、という感じになる。

しかし、めずらしく今週のお題に乗せられて「2012年に買って良かったもの」にしておこう。

インターネットの収益モデル

どうもはてなの広告もうるさいので、ポイントを購入して広告を消そうと思ったのだが、ポイントは860円などの端数で買うことができない。でその端数も処理できない。一年使わないと消滅する。なかなかいけている仕掛けなので、購入するのは控えることにした。まあ、誰も読んでいないのだから広告くらい構わないと思うことにした。
これに限らず、インターネットビジネスは、今や広告で稼ぐのが一番で、二番は無いということになっている。なんといってもGoogleがこれで一人勝ちしたので、後に及ぶ者が無い。誰も他を思いつかない。

こういう状態が長く続くと、誰かがふと思いついたビジネスモデルがブレークスルーになってインターネットを席捲するというのが今までのインターネットの動向だが、どんなものが考えられるのだろうか?
私が、ここで考えているのは広告ビジネスには本来馴染まない教育などのように思想、信条に影響を受けないこと要求されるビジネスのことである。教育が広告主の影響を被ることになって進化論を教えるのはけしからんとか、地動説はけしからんとか、もしそういう話しになると、教育そのものが成り立たなくなってしまう。
ただ、教育は、西洋では中世以来、古代の中国でも日本でもおそらく自己負担だったはずなので、その限りでは、現代においてその古代、中世以来のモデルを変えなくてもいいのかもしれない。ただそこにはあらわれない現代的な問題は、自己負担できない世界の多くの人たちへの教育をどのように展開するかである。昨今のMITのOne Lapotop per Child もオープンエデュケーションも西洋的な人道主義で鼻持ちならんという考え方は置いておいて、世界的な観点からは必要とされているアプローチではある。
このための、ブレークスルーが今求められている。年寄りにはちょっと思いつかないが。
などと考えていたら、アマゾンにはcouraceraについて書いた本が出ていた。気が付かなかった。しかし、amazon.comに行って、概要を見たらWikipediaの焼き直しとかわざわざ書いてある。しかも68ページとか。なんでこれが3千円以上もするんだろう。はてなポイントと同じくらい理解できない。

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