Seishi Ono's blog

Fugaces labuntur anni. 歳月人を待たず

大学はMOOCに置き換えられるのか

12月9日付のワシントンポスト紙の記事「Georgetown to offer free online courses」によればジョージタウン大学もEdXに参加することにしたらしい。

格式と伝統のある保守的なカソリック系大学の参加は、ちょっとしたニュースだったわけだ。

この記事の最後に、face-to-faceの講義とオンライン講義の最適なブレンドを見つけ出す、これはまだこれからの課題だと書かれていることが少し印象深い。

オンライン講義が大学の講義の全てを置き換えることはできないし、世界のOpen Universityが実証しているように、ある程度の置き換えが実現できているとしても、face-to-faceの方が効率が良いこともある。これは古くて新しい課題で、今後MOOCの進展とともにますます大きな課題になって行くのだろう。

大学講義は、置き換えら得るのでは無く改善され、より高度な教育方法を手に入れることができるというのがジョージタウン大学の考え方のようだ。私もそう思う。そもそも変革というのもは、そうでなくてはならないだろう。

それにしても、EdXも中を見れば普通のオンライン講義で新しいことが何かあるわけでも無い。しかし数の論理は絶対だ。MOOCの活動によって数百万人の参加を得れば、世界は変わって行く。エリート大学がそれを主催すれば、だれにも近寄りがたい活動になるのだろう。

日本の放送大学でも2桁も違う学生しか在学していないという現状を考えたときに、この世界のムーブメントをどうとらえたら良いものだろう。

 

黒船としてのオープンエデュケーション

オープンエデュケーションは、日本の高等教育機関にとって脅威かそうでは無いのか?日本語という非関税障壁に守られているガラパゴス、鎖国された日本は、いつまで鎖国を続けられるのだろうか?

私にすれば、黒船がそこまできているのに惰眠をむさぼっているように見える日本の高等教育機関の明日が心配でならないが、それは大きな勘違いなのだろうか?

それが正しかったどうかの答えは、きっとまだ少し先にある。

そういうわけで、最近、明治維新の志士たちは、こんな風にやきもきするような焦燥感に捕らわれていたのかもしれないと感じることがあるが、それは傲慢というものだろう。しかし、実はそれ以上に、魯迅の吶喊自序にある、諦観とささやかな希望に私は、同感する。魯迅は語る。

「かりにだね、鉄の部屋があるとするよ。窓はひとつもないし、こわすことも絶対にできんのだ。なかには熟睡している人間がおおぜいいる。まもなく窒息死してしまうだろう。だが昏睡状態で死へ移行するのだから、死の悲哀は感じないんだ。いま、大声を出して、まだ多少意識のある数人を起こしたとすると、この不幸な少数のものに、どうせ助かりっこない臨終の苦しみを与えることになるが、それでも気の毒とは思わんかね。」「しかし、数人が起きたとすれば、その鉄の部屋をこわす希望が、絶対にないとはいえんじゃないか」魯迅『阿Q正伝・狂人日記』岩波文庫

「このままでいいのか悪いのか、それが問題だ」*1と小田島雄志が訳したハムレットの心境もまた同じ所にあったに違いない。

*1:To be, or not to be: that is the question.

MOOCはブーム

xMOOCsの仕組みを見ていると、時代遅れだという批判が、cMOOCsの人たちをはじめいくつかある。実際その通りだと思う。

失敗したfathomと余り変わらないe-leaningシステムでしかないようにみえる。だから、このままではxMOOCsは一時のブームで終わってしまうかもしれない。

そう言う指摘は、NPO法人CCC-TIES シンポジウム 「オープンエデュケーションは大学をどう変えるのか」で、大学評価・学位授与機構の土屋先生が強く、岡部放送大学長が弱く言ったと思う。

しかしMOOCのようなオープンエデュケーションのムーヴメントはそう簡単には終わらない。ブレークスルーがあれば、大学に大変革をもたらすはずだ。

MOOCの活動を知っている人たちは誰もがそのように感じ始めている。

でも「来年はMOOCなんか忘れ去られている」という土屋先生の指摘は、相変わらず面白い。いやぼくもそれに乗る。ただ、その後にあるものは何か?できれば、我々のプロジェクトがプライしていて欲しいが、まあ貧乏だから無理だ。

人生のために学ぶ


ラテン語の格言には、Non scholae sed vitae discimus.「学校のためにでは無く人生のために学ぶ」という一文がある。セネカの書簡集にあるNon vitae sed scholae discimus.「人生のためで無く学派のために学ぶ」という学者に対する皮肉な言い回しをひっくり返したものだ。non 〜 sedは英語のnot  〜 but のことだというお勉強もできる。これをさらに簡単にしたNon scholae, sed vita「学校のためで無く人生のために」というのもあって、ヨーロッパの大学なとにはこちらが掲げられることが多いようだ。*1これを今の大学の実情に合わせてもう少し意訳すれば「学位のためにでは無く人生のために学ぶ」となるだろう。

まあ、オリジナルのセネカの方がさすがに深いと思うが、Illichの脱学校化社会もこの精神の上にある。そしてその先にあるMOOCも。さらに今のxMOOCsの理念までそれは続いているのは、KollerのTEDでの講演を聴いていても明らかだ。


Daphne Koller: What we're learning from online education

新しい挑戦をするのであれば、卑近にならず高い理想を掲げて進まなければならない。現実はほど遠くても。

オープンエデュケーションは、学校を抜け出して人生のために提供される。

しかし、ヨーロッパの多くの大学自身が先のラテン語を掲額しているように、大学自身に求められている目標もまたそれと異ならない。にもかかわらず、改めてそれを言わなければならないという現実が今の大学には、あるように思われるし、日本の大学に至ってはなおさらそうである。

そういえば、この格言をGoogleで検索していたら、昨日話題にしたジョージタウン大学で歴史学を長年教えていた神父様の話に行き着いた。この神父様の強い影響を受けて自分も神父になったという話しなので、まさに人生のために学んだということなのだろうが、ジョージタウン大学の歴史と伝統を垣間見る話しだ。そのジョージタウン大学がEdXに踏み出すと決めるまで半年しかかかっていない。慨嘆してみてもはじまらないが、今の日本の大学事情は余りにほど遠く貧困だ。

大規模オープンオンラインコースの陥穽

2012年10月に発生したCourseraの閲覧不能事故*1は、クラウドサービスを利用している場合には、どのサービスでも起こりうる事故であって、それ自体は取り立てて大きな問題であったわけではない。しかし、なかなか教訓的ではあった。

大規模オープンオンラインコースでのサービス不能状態は、こうしたサービスの宿命と言えるだろうか?

自分自身でホストを構築し、運用している限りその答えは常にイエスである。しかし、もっと別の発想で者を考えれば、新しい道は開けるかもしれない。

例えばP2Pでの運用などがそうである。P2Pでの運用は、モラルの問題や著作権の問題をはじめ解決すべき課題は多いが、発想を変えれば、可能にならないだろうか?

例えば、クラウドを一つのノードに見立ててP2P通信で運用するとか、途方も無い発想ではあるが、実現不可能では無いように思う。一つのクラウドというノードが落ちても、ユーザは別のクラウドというノードに行けば良いだけである。

また、特にオープンオンラインコースの場合は、学習者単位でのP2P通信は馴染みやすいものになるかもしれない。

大規模オープンオンラインコースを作ろうとすれば、そうした可能性についても今後は検討して行く必要があるだろう。

khan academyの変革

MOOCsが、スタンフォード、MIT、ハーバードなどエリート大学による、教育支配の道具であるのに対して、khan academyは、MOOCより以前から、学位があるわけでもない個人的な趣味で始めた活動がアカデミーとして具現化した活動である。

エリート大学だけがMOOCsを支配するわけではない。創意工夫が、エリート大学をしのぐ可能性はないわけではない。

もちろん、そこには多くのアイデア、努力、そして資金が必要になるだろうが。

そして、さらには、MOOCだけが大規模オープンオンラインコースだというわけでもない。日本においては特にそうだ。

The MOOC Guide

The MOOC Guide(https://sites.google.com/site/themoocguide/home)は、ここまでのMOOCの歴史を知るのにわかりやすいサイトだ。

Wikiベースで2007年に始まったMOOCの初期の活動は、 Connectivism and Connective Knowledge course (CCK08)で本格的な活動となり、CCK11で一つのスタイルになった。WikiやFacebook、Second Lifeなどの既存のSNSを利用して成功したMOOCは、150万人の利用者を獲得するまでになった。

2012年は The Year of MOOCs と呼ばれるようになったが、しかしここではMOOCの様相が一変することになる。Udacity、Courcera、edXなどが巨額の資金を得て参入し、独自のSNSによってクレジットを収益に据えた新しい活動を開始したからである。

Phil Hillによれば、現在MOOCには4つの課題があるはず(http://mfeldstein.com/four-barriers-that-moocs-must-overcome-to-become-sustainable-model/)である。

  • コースの完遂率が低すぎる
  • 発行したクレジットが本当に価値のあるものになっているか 
  • 本人認証を確実に行えるのか
  • かなりの投資をして、それに見合う収益が得られるか

 

2番目については、Couceraが一つの答えを出したが(http://www.slate.com/blogs/future_tense/2012/11/13/online_classes_coursera_to_offer_college_credit_for_some_courses_starting.html)、それだけに3番目の本人認証の確実性は重要な、そして重い課題になってくるように思われる。すると4番目のそもそも儲かるのかという問題に繋がってくる。

まだまだMOOCsがビジネスになるのは大変そうではある。

この中で、キーとなるのは、今の所、一番目のコース完遂率の維持と3番目の本人認証の問題についてだと思われる。ここのブレークスルーがあれば、MOOCのような大規模オープンオンラインコースは成功できる。