Seishi Ono's blog

Fugaces labuntur anni. 歳月人を待たず

ハーバートノーマンの安藤昌益

忘れられた思想家〈上巻〉―安藤昌益のこと (岩波新書)

忘れられた思想家〈上巻〉―安藤昌益のこと (岩波新書)


ハーバートノーマンの安藤昌益を読んだのは高校生の頃なので、もう45年も前のことになる。時代の流れるのはあっという間である。再版され、それも絶版になりかけていたのを慌てて買って読み始めたが、昔を懐かしく思い出すとともに、昔は見えなかった話しが見えてくるのは少しは大人になったからだろうか。
ハーバートノーマンは、カナダの外交官でありながら、日本で恐ろしく珍しい者を研究し、やがてスパイの嫌疑をかけられエジプトで自殺した。40年前にはわからなかったことで、今は判明していることの一つとして、ノーマンはほぼ確実にソ連のスパイであったと言うことである。だからといって彼の日本研究が曇るわけではない。
彼の英語を何度もおさらいして英文の達人になったという逸話は、丸山真男のこととしてうろ覚えに覚えている。私も一つ真似をしてノーマンのJapan's Emergence as a Modern Stateを買って読んでみようと思い立ったものの、5分で挫折したことも思い出の一つにある。
ノーマンは、素朴な西洋主義の目線にならないように彼は日本文化について懸命に考えたと思うのだが、それでも西洋的であることはしかたが無いし、それによって新鮮な発見がもたらされるのであればそれも一つの成果だろう。
例えば、ノーマンは、昌益を封建社会の最大の批判者としているが、今の目線で見ると徳川時代は別に封建社会では無かったので、少し叙述に無理がある。しかし、西洋的な解釈でそこを乗り切る当たりは、水際だってもいる。安藤昌益研究はノーマン以来山のようにあるので、別に僕はそれが本当に正しいのかどうかを気にしなくても良く、それよりも、懐かしい手触りの語り口を楽しむだけで良いだろう。
若い頃には、昌益が、聖人と仏陀を口を極めて非難し、しかし、それを気取られないように慎重に振る舞ったとあるのが当時はなかなか共感したところであるが、あまりにも禁欲的な主義主張は、今の目で見るとごめんなさい、という感じになる。

しかし、めずらしく今週のお題に乗せられて「2012年に買って良かったもの」にしておこう。

インターネットの収益モデル

どうもはてなの広告もうるさいので、ポイントを購入して広告を消そうと思ったのだが、ポイントは860円などの端数で買うことができない。でその端数も処理できない。一年使わないと消滅する。なかなかいけている仕掛けなので、購入するのは控えることにした。まあ、誰も読んでいないのだから広告くらい構わないと思うことにした。
これに限らず、インターネットビジネスは、今や広告で稼ぐのが一番で、二番は無いということになっている。なんといってもGoogleがこれで一人勝ちしたので、後に及ぶ者が無い。誰も他を思いつかない。

こういう状態が長く続くと、誰かがふと思いついたビジネスモデルがブレークスルーになってインターネットを席捲するというのが今までのインターネットの動向だが、どんなものが考えられるのだろうか?
私が、ここで考えているのは広告ビジネスには本来馴染まない教育などのように思想、信条に影響を受けないこと要求されるビジネスのことである。教育が広告主の影響を被ることになって進化論を教えるのはけしからんとか、地動説はけしからんとか、もしそういう話しになると、教育そのものが成り立たなくなってしまう。
ただ、教育は、西洋では中世以来、古代の中国でも日本でもおそらく自己負担だったはずなので、その限りでは、現代においてその古代、中世以来のモデルを変えなくてもいいのかもしれない。ただそこにはあらわれない現代的な問題は、自己負担できない世界の多くの人たちへの教育をどのように展開するかである。昨今のMITのOne Lapotop per Child もオープンエデュケーションも西洋的な人道主義で鼻持ちならんという考え方は置いておいて、世界的な観点からは必要とされているアプローチではある。
このための、ブレークスルーが今求められている。年寄りにはちょっと思いつかないが。
などと考えていたら、アマゾンにはcouraceraについて書いた本が出ていた。気が付かなかった。しかし、amazon.comに行って、概要を見たらWikipediaの焼き直しとかわざわざ書いてある。しかも68ページとか。なんでこれが3千円以上もするんだろう。はてなポイントと同じくらい理解できない。

Coursera

Coursera

大学はMOOCに置き換えられるのか

12月9日付のワシントンポスト紙の記事「Georgetown to offer free online courses」によればジョージタウン大学もEdXに参加することにしたらしい。

格式と伝統のある保守的なカソリック系大学の参加は、ちょっとしたニュースだったわけだ。

この記事の最後に、face-to-faceの講義とオンライン講義の最適なブレンドを見つけ出す、これはまだこれからの課題だと書かれていることが少し印象深い。

オンライン講義が大学の講義の全てを置き換えることはできないし、世界のOpen Universityが実証しているように、ある程度の置き換えが実現できているとしても、face-to-faceの方が効率が良いこともある。これは古くて新しい課題で、今後MOOCの進展とともにますます大きな課題になって行くのだろう。

大学講義は、置き換えら得るのでは無く改善され、より高度な教育方法を手に入れることができるというのがジョージタウン大学の考え方のようだ。私もそう思う。そもそも変革というのもは、そうでなくてはならないだろう。

それにしても、EdXも中を見れば普通のオンライン講義で新しいことが何かあるわけでも無い。しかし数の論理は絶対だ。MOOCの活動によって数百万人の参加を得れば、世界は変わって行く。エリート大学がそれを主催すれば、だれにも近寄りがたい活動になるのだろう。

日本の放送大学でも2桁も違う学生しか在学していないという現状を考えたときに、この世界のムーブメントをどうとらえたら良いものだろう。

 

黒船としてのオープンエデュケーション

オープンエデュケーションは、日本の高等教育機関にとって脅威かそうでは無いのか?日本語という非関税障壁に守られているガラパゴス、鎖国された日本は、いつまで鎖国を続けられるのだろうか?

私にすれば、黒船がそこまできているのに惰眠をむさぼっているように見える日本の高等教育機関の明日が心配でならないが、それは大きな勘違いなのだろうか?

それが正しかったどうかの答えは、きっとまだ少し先にある。

そういうわけで、最近、明治維新の志士たちは、こんな風にやきもきするような焦燥感に捕らわれていたのかもしれないと感じることがあるが、それは傲慢というものだろう。しかし、実はそれ以上に、魯迅の吶喊自序にある、諦観とささやかな希望に私は、同感する。魯迅は語る。

「かりにだね、鉄の部屋があるとするよ。窓はひとつもないし、こわすことも絶対にできんのだ。なかには熟睡している人間がおおぜいいる。まもなく窒息死してしまうだろう。だが昏睡状態で死へ移行するのだから、死の悲哀は感じないんだ。いま、大声を出して、まだ多少意識のある数人を起こしたとすると、この不幸な少数のものに、どうせ助かりっこない臨終の苦しみを与えることになるが、それでも気の毒とは思わんかね。」「しかし、数人が起きたとすれば、その鉄の部屋をこわす希望が、絶対にないとはいえんじゃないか」魯迅『阿Q正伝・狂人日記』岩波文庫

「このままでいいのか悪いのか、それが問題だ」*1と小田島雄志が訳したハムレットの心境もまた同じ所にあったに違いない。

*1:To be, or not to be: that is the question.

MOOCはブーム

xMOOCsの仕組みを見ていると、時代遅れだという批判が、cMOOCsの人たちをはじめいくつかある。実際その通りだと思う。

失敗したfathomと余り変わらないe-leaningシステムでしかないようにみえる。だから、このままではxMOOCsは一時のブームで終わってしまうかもしれない。

そう言う指摘は、NPO法人CCC-TIES シンポジウム 「オープンエデュケーションは大学をどう変えるのか」で、大学評価・学位授与機構の土屋先生が強く、岡部放送大学長が弱く言ったと思う。

しかしMOOCのようなオープンエデュケーションのムーヴメントはそう簡単には終わらない。ブレークスルーがあれば、大学に大変革をもたらすはずだ。

MOOCの活動を知っている人たちは誰もがそのように感じ始めている。

でも「来年はMOOCなんか忘れ去られている」という土屋先生の指摘は、相変わらず面白い。いやぼくもそれに乗る。ただ、その後にあるものは何か?できれば、我々のプロジェクトがプライしていて欲しいが、まあ貧乏だから無理だ。

人生のために学ぶ


ラテン語の格言には、Non scholae sed vitae discimus.「学校のためにでは無く人生のために学ぶ」という一文がある。セネカの書簡集にあるNon vitae sed scholae discimus.「人生のためで無く学派のために学ぶ」という学者に対する皮肉な言い回しをひっくり返したものだ。non 〜 sedは英語のnot  〜 but のことだというお勉強もできる。これをさらに簡単にしたNon scholae, sed vita「学校のためで無く人生のために」というのもあって、ヨーロッパの大学なとにはこちらが掲げられることが多いようだ。*1これを今の大学の実情に合わせてもう少し意訳すれば「学位のためにでは無く人生のために学ぶ」となるだろう。

まあ、オリジナルのセネカの方がさすがに深いと思うが、Illichの脱学校化社会もこの精神の上にある。そしてその先にあるMOOCも。さらに今のxMOOCsの理念までそれは続いているのは、KollerのTEDでの講演を聴いていても明らかだ。


Daphne Koller: What we're learning from online education

新しい挑戦をするのであれば、卑近にならず高い理想を掲げて進まなければならない。現実はほど遠くても。

オープンエデュケーションは、学校を抜け出して人生のために提供される。

しかし、ヨーロッパの多くの大学自身が先のラテン語を掲額しているように、大学自身に求められている目標もまたそれと異ならない。にもかかわらず、改めてそれを言わなければならないという現実が今の大学には、あるように思われるし、日本の大学に至ってはなおさらそうである。

そういえば、この格言をGoogleで検索していたら、昨日話題にしたジョージタウン大学で歴史学を長年教えていた神父様の話に行き着いた。この神父様の強い影響を受けて自分も神父になったという話しなので、まさに人生のために学んだということなのだろうが、ジョージタウン大学の歴史と伝統を垣間見る話しだ。そのジョージタウン大学がEdXに踏み出すと決めるまで半年しかかかっていない。慨嘆してみてもはじまらないが、今の日本の大学事情は余りにほど遠く貧困だ。

大規模オープンオンラインコースの陥穽

2012年10月に発生したCourseraの閲覧不能事故*1は、クラウドサービスを利用している場合には、どのサービスでも起こりうる事故であって、それ自体は取り立てて大きな問題であったわけではない。しかし、なかなか教訓的ではあった。

大規模オープンオンラインコースでのサービス不能状態は、こうしたサービスの宿命と言えるだろうか?

自分自身でホストを構築し、運用している限りその答えは常にイエスである。しかし、もっと別の発想で者を考えれば、新しい道は開けるかもしれない。

例えばP2Pでの運用などがそうである。P2Pでの運用は、モラルの問題や著作権の問題をはじめ解決すべき課題は多いが、発想を変えれば、可能にならないだろうか?

例えば、クラウドを一つのノードに見立ててP2P通信で運用するとか、途方も無い発想ではあるが、実現不可能では無いように思う。一つのクラウドというノードが落ちても、ユーザは別のクラウドというノードに行けば良いだけである。

また、特にオープンオンラインコースの場合は、学習者単位でのP2P通信は馴染みやすいものになるかもしれない。

大規模オープンオンラインコースを作ろうとすれば、そうした可能性についても今後は検討して行く必要があるだろう。