Seishi Ono's blog

Fugaces labuntur anni. 歳月人を待たず

正義と公正

最近の民主党の政治資金規正法違反事件などを仄聞する都度思うのだが、日本の司法システムは西洋的でありながら、その理念はどこか西洋から遠いところにある。それを未熟というか独自の文化というかは、シニカルにいわせてもらえば、見方の問題に過ぎない。

私がここで念頭に置いているのは、 Rawls "Theory of Justice"のことである。正義と公正をホッブスやロックのような英国流功利主義から遠ざけ、カント流の構成論を展開しながら、神のみえざる手から正義と公正を引き離してゆく水際だった主張にはなかなか感心させられるし、彼の忠実な解説者である Freeman の"Rawls"を読むとその感をいっそう強くする。

Rawlsは言うまでもなくあまりにリベラルであるため、米国では毀誉褒貶が著しい。しかし、米国では忘れかけていた正義と公正に関する西洋に古くからあった哲学的意味を現代に強く意識させた事は確かである。Rawlsの影響下にあってノーベル経済学賞を受賞したAmartya Senの存在がその証だろうと私は思う。

しかし、日本ではそのような議論が口の端に上ることはない。「疑わしきは被告人の利益に」という法諺を当然のように繰り返させられる司法修習生たちが、模擬法廷では、とてもそのことを理解しているとは思えない判断をする、裁判をすれば有罪率は99%という、危うさの根源はそうした哲学に基づいた倫理観の欠如に基づくものだろう。

正義と公正は、何よりも人民の手にあるものであって、誰かが正しい裁きをしてくれることを期待するものではないという西洋的な正義の根本的な理念がなければ、西洋的な司法システムは機能しない。

明治時代ではないのだから、何もかも西洋がよいわけでも無し、穂積八束のように「民法出て忠孝滅ぶ」とまで言う時代でもない。ただ、「第二次大戦に敗戦した後の劣等感に彩られた敗戦史観はいい加減にした方が良い。」という最近の主張も理解できないわけではないが、55年体制が崩れるまでには語呂合わせのように55年かかったのである。この国を支える国のメカニズムとその理念の間のギャップについては、今一度考えるべき時期に来ているように感じている。

A Theory of Justice: Original Edition

A Theory of Justice: Original Edition


Rawls (The Routledge Philosophers)

Rawls (The Routledge Philosophers)