Seishi Ono's blog

Fugaces labuntur anni. 歳月人を待たず

日本の教育市場

日本の教育市場は、世界に比較してその成長が著しく鈍いというレポートを三井戦略研究所が発表している。酒井美千代「成長が期待される世界の教育市場」http://mitsui.mgssi.com/issues/report/r1207i_sakai.pdf

昨今の高等教育機関を初めとする日本の教育の閉塞感を数字で実感する気がしたが、このレポートをさらに、加工してここ10年間の対GDPの成長率で教育市場の成長率を割った値を比較したグラフを作成た。(http://sigcle.jp/index.php?第9回研究会  「大規模オンラインコースを考慮した学習支援システムの構築」)

それが下のグラフである。GDPと教育市場の成長率が一致していれば1.0なので、世界の教育市場はこの10年間に、GDPを上回る成長率を遂げたことがわかる。1位のオランダが飛び抜けているのは特有の事情があったにしても、2位の米国でもGDPの2倍近い成長率を遂げている。日本は0.3と低い値である。この間日本のGDPは6%と失われた10年を象徴して低かったが、教育への投資はさらに低く2%の成長しか遂げていない。成長がマイナスになったサウジアラビアのような特別な例を除けば、世界最低ランクと言うことができる。

これをどう理解すべきだろうか?非常に効率の良い教育を行って成果を上げたのだ、という人もいて、そういう側面も忘れてはならないと思ったが、実際は、ガラパゴス日本の象徴で、日本が世界に出て行けない教育に甘んじて、グローバル化への投資を怠っているというのが、私が教育現場に居ての実感である。

「教育の最大の障害は教師にある」とドラッカーは言ったそうだが、日本においても大学教員は、実はグローバル化の最大の障害であり、日本が鎖国に徹しガラパゴスから抜け出せない最大の要因になっていると私には思える。それを打破するためになにをすべきか、何に投資すべきか、そこを改めて考えなければならない時代が、間もなく来ると私は思っている。

日本の教育産業も日本と世界の格差がこれほど大きければ、日本への投資よりも世界への投資を目指すだろう。金額がいかに大きな金額でも、もう日本の国内でのパイは限られており、既存のサービスで取り分は決まってしまっているだろう。新規参入の余地はかなり限られている。優れた新しい技術は成長著しい国に流出し、その時になって日本の教育の空洞化を嘆くことになっても、もう遅いということになりそうだ。

オープンエデュケーションが黒船になる日が来ると私は思っているが、そこで日本は明治維新のような革命は起こらず、空洞化した教育機構だけが残ると言うことに、このままではなりそうではないか。

個人的には、実はそれでどうなっても構わないとは思うが、このグラフを見てチャンスにいち早く気が付いた日本の大学や企業がもっとなんとかしようと思わないのが不思議ではある。

 

world education market

 

教授がコンピュータスクリーンに置き換えられる日

Cathy Davidsonの論説If We Profs Don't Reform Higher Ed, We'll Be Re-Formed (and we won't like it)は、なかなかセンセーショナルではある。

そこで語られていることは、この1年間のMOOCsのブームで膾炙されたことをまとめたに過ぎないのだが、やはり目の当たりにすると考えさせられる。彼女はそうなる理由を4つ挙げている。

  1. 「高等教育のしかも質の良い教育を受けたい」と思う人はたくさんいるが現在の大学では受け入れ余地はわずかしか無い
  2. 就学希望を叶えるためには、高等教育機関の学費は余りに高い

ここまでは、TEDでのCouceraのKollerの発言そのままである。そしてこれに対してオープンオンラインコースがチャレンジするのだが、このオープンオンラインコースの優位性について以下のように指摘する。

  1. オンライン教育は非営利法人が適合的であり、それは従来の大学では無い
  2. 今までの教育方法は、幼稚園から大学まで余りに古い

この限りでは、まあ、わかりやすい話ではある。

しかし、わかりやすい話であるだけに、高等教育機関も教員も抵抗勢力となり、なかなかこの壁を突破することは容易ではないだろう。ただ、いつまでも、旧態依然のスタイルが生き延びるとは思えない。すでにカーンアカデミーは、壁を突破したと言うより「すり抜けて」一つのスタイルを確立したように見える。

正面から突破するもよし、すり抜けて土台を崩すもよし、時代は高等教育機関の変革に大きく舵を切っているのだと思いたい。

Cathy Davidsonは、「大学教員はコンピュータスクリーンに置き換えられるべきものであれば置き換えられるべきである。」と述べている。その通りだと思う。

 

中世の大学とオープンオンライン教育の学費徴収システム

西洋における最古の大学はイタリアのボローニャ大学と言われている。私のおぼろげな知識では、この大学は、元来の意味での「ウニベルシタス」すなわち組合として、学生たちがお金を出し合って教員を招聘したと言われている。これに対して、パリ大学は教員が学生たちを集めお金を徴収する仕組みだった。いずれも13世紀に神聖ローマ帝国からストゥディウム・ゲネラーレとして勅許された9大学の内の一つである。

やがて、大学の運営は、学生中心のボローニャ大学方式から教員中心のパリ大学方式へと移っていった。なぜなら、大学の運営としてはパリ大学方式が遙かに効率的だったからだ、と私は想像している。

時代が変わって、現代のオープンオンラインコースは、この13世紀以来のパリ大学方式の運営に変革を迫っているように私には思える。

MOOCに代表されるオープンオンラインコースは、学費を取らない。ただ、コースを修了した者が修了証を必要としているときだけお金を払えば良い。つまり学費は前払いでは無く後払いなのである。

このような運営方式では、従来の学校経営は成り立たないことはあきらかである。学生からの学費の徴収効率が著しく悪く、経営できないからである。オープンオンラインコースであれば、コスト増がほとんどなく数十万人単位の学生を対象にすることができるため、多少の徴収効率の悪さは気にならない。そのような仕組みの上で初めて成り立つビジネスと言える。この限りではMOOCは大変革新的である。

ただ、このような運営方式でも、余りに学費徴収の効率が悪い場合には、やはり経営は厳しいものになる。案の定というべきかedXのコース終了率は10%を下回り、修了証枚数は数千枚に止まっている。

このため、このフォールアウトの余りに大きいことが現在のMOOCの課題の一つと言われている。

しかし、ここでフォールアウトの意味するところをもう一度再考してみよう。これは要するに学生がある教員の授業を受けたけれども、何らかの理由でコースを中断してしまったことを意味する。フォールアウトが大きければ教育方法やシステムに何らかの問題があった可能性が指摘される。

この発想は13世紀のパリ大学方式の運営の中でこその発想に過ぎないのかもしれない。それ以前のボローニャ大学方式であればどうだろう?学生は気に入った教員を呼んで、皆で共同してそれに対価を支払う。フォールアウトは教員の側がするかもしれないが、コースを仕組んだ学生たちは、むしろ授業やシステムに責任があることになるだろう。つまらない教員は二度とよばなければ良いだろうし、あまりにつまらなければ追い出せばよいのだ。

新しいオープンオンラインコースでこのような中世ボローニャ大学運営方式を再考しても良い時期に来ているのでは無かろうか?すなわち、オープンオンラインコースは、その性格上学生数などから導き出される通常の大学における経済効率性から自由だとすれば、発想を転換して学生主体の運営というものを可能にするのでは無かろうか?

最近教育方法論ではflipped classromというのが流行っている。本来の授業は家庭で行い復習を学校でやるという意味でのあべこべ授業であるが、先生と生徒が入れ替わる、学校の運営そのものをflippedさせる発想が無ければ、本当の意味でのオープンオンラインコースによる革新は起きないかもしくは継続できないと私は思っている。

 

 

NetBSD on VMware Fusion 5

VMware Fusion 5

VMware Fusion 5


ひょんなことから、いつも使っている Mac Book Pro のRetina モデルにVMware Fusion5を入れてみた。
このVMwareは、ちゃんとRetina対応になっていて、なんとなくうれしい。

まず、Windows8を入れてみたが、もちろん問題なく動く。Windows系はしばらくご無沙汰な上に、このLook & Feelでは、なかなかオペレーションには苦労した。まあ、このあたりは想定の範囲内である。

つぎにUbintu12.04を入れてみた。問題なく入るのだろうと思ったが、そうでもない。インストールが終わって、ログインしようとするとパニックする。しばらく悩んだが、VMwareのディスプレーの設定が3Dモード有効となっていたので、これを切ったら問題なく動作した。

これが、去年の暮れの話しである。さて、しかし、2つ入れてみたが、実際に使ってみようという気にならない。ちょっといじってすぐ飽きてしまった。

それで、これもまた思いついてNetBSD6.01を入れてみる気になった。NetBSDなど2.0位から触っていないような気がする。これがこの連休のテーマである。インストールは問題なくできた。X-Windowも問題なく動く。3ボタンのエミュレーションもコントロールキーとコマンドキーを押すことで実現しているのだと、この時初めて知った。

それにしてもである。インストール手順から、Xが動作してタブウィンドーマネージャーでxtermとxclockがあらわれるところまで、20年近く前と余り変わっていないのにも感心し、懐かしい気分に浸れた。これだけでもVMwareとNetBSDに感謝したいところだ。

しかし、日本語入力をanthyにしようと思い、さらにSCIMを入れてみようと思った当たりからおかしなことになる。そのためには結局Gnomeも入れた方が良いという話になるからである。これをソースからコンパイルする。さすがに6時間くらいはかかる。やっと入れたと思ったら、Gnomeが立ち上がらない。

dbusを動かさないとダメだと言うことにしばらく気が付かなかった。/etc/rc.localに


if [ -x /usr/pkg/bin/dbus-daemon ]; then
mkdir -p /var/run/dbus
echo -n ' dbus'; /usr/pkg/bin/dbus-daemon --system
fi

と入れておく。このあたりもかなりレトロである。

VMware-toolsもopen-vm-toolsとか入れておけば良いようだ。
などと、遊んでみたが、結構楽しめるものだ。

VMware daemonも同じく /etc/rc.localに


if [ -x /usr/pkg/sbin/vmware-guestd ]; then
echo -n ' vmware-gusted'; /usr/pkg/sbin/vmware-guestd --background /var/run/vmware-gusetd.pid
fi

とか書いておけばいいようだ。

ついでにfirefoxとか入れたらどうなるだろう。なにせソースから入れるのだ。と思ったらこれも数時間で終わった。

調子に乗って、libreofficeとかもコンパイルしようとしたが、夜が明けても終わらない。まあ、2,3日かかりそうだ。

それにしても病気だな、と我ながら思う。

マイクロレクチャーという講義形態


マイクロレクチャーカーンアカデミーで評判を取って、最近ではUdacityなどでも採用されている1分単位のレクチャーである。1分で講義をするのはかなりチャレンジで実際にはもっと長い単位でのレクチャーもマイクロレクチャーと呼ばれている。

数学の専門家に言わせると、数式を1分間では説明できない、15分は欲しいという。なるほどその通りだ。カーンアカデミーでも統計学などは30分くらい使ったのもあり、カーンさんのこの柔軟な所もまた良い点かもしれない。

しかし、Udacityはなかなか徹底している。統計学をどうしているのだろうとと思ったら、ビデオの連続再生機能を使って数十秒単位の説明をつなぎ合わせている*1。これもこれで工夫である。Youtubeでみるとちょっとくらくらするが、専用のLMSでならストレス無く見えるだろう。

Udacityがここまでマイクロレクチャーにこだわっているのは、おそらくこれを国際化対応するときなどの加工を容易にするためという狙いもあるのでは無いかとも考えられる。

また、マイクロレクチャーの話を聞いて「確かに研究者は、3分で自分の専門を語りきれなければならない」といった研究者の方もいたが、それも一つの見識である。

マイクロレクチャーからもまた新しい教育の世界が広がって行く可能性は十分あるのだが、日本においては、これもまだまだ萌芽段階でしか無い。

日本語という非関税障壁が、米国の高等教育機関の劣化コピーに過ぎない日本の高等教育機関の教育をしっかりと守っているように私には思える。


Welcome - Intro to Statistics - Teaser - Udacity

*1:もっとも全ての講義にそれが適用されているわけでは無い。むしろ実験的な挑戦なのであろう

MOOCを新しい革袋に入れる

MOOCは、イリイチの「脱学校化社会」の理念から出発して人気となり、膨大な受講者を集めたところで、ビジネスになった。

このビジネスを成功と評価するにはもう少し時間を要するが、急速な展開のなかで、まだまだ精度をあげなければならない部分がある。

例えば、Courseraでは、学生5人の学生を組にしてレポートのPeer Reviewをさせるが、エリート大学で入学試験を越えてきた学生同士がやるのなら可能でも、オープンオンラインコースには本当に馴染むのか?などの議論は、今でもあり、ここではまさに新しい教育成果がどのようなことになるのか興味深いところである。

一方、LMSやチャットシステムも大規模オンラインコースに適合したシステムになっているかどうかは、議論の別れるところであろう。

見る限りどのxMOOCも同工異曲のLMSやSNSチャットシステムであり、あっけない感じさえする。

一方のcMOOCが、そもそもシステムなどには頓着せずに、Twitter、Facebook、Second LifeのようなSNSやMoodleのようなお手軽なLMSを使って授業展開をしたことを考えれば、そもそもxMOOCのようなシステムそのものの必要性も問われて良いのかもしれない。

ただ、新しい酒は新しい皮袋に入れるものだという聖書の教えからすれば、どちらの革袋もはまだ改良の余地があるだろう。

我々の狙いが正しければ、ここにも革新を起こせる余地はある。

Web2.0の先へ

Web2.0を言い出したのは、Tim  O'Reillyであり、調べてみるとこれは2004年のことだったようだ。瞬く間にこの言葉はバズワードになり、たくさんの○○2.0のバリエーションが生み出された*1。まことに便利な言葉だったわけだが、もう8年も経ってしまってそろそろドアを閉じるときではなかろうか。


Tim O'Reilly on What is Web 2.0?

Web2.0はYahooやGoogleに代表される優れた検索エンジンのおかげでWebの世界に革新が起こった事がベースとなっていると思われるが、結局それは豊富な資金力に支えられ、internet特有の一人勝ちビジネスに貢献した。利用者の利便性は確かに夢のように向上したので、それは利用者とGoogleのWin-Winの時代であったと言える。

しかし、結局は莫大な資金のあるものが常に一人勝ちするというInternetの陳腐なパラダイムがいよいよ明確になってしまったという気がしないではない。Windowsも斜陽ならば、Appleも危ういことに今はなっているように見える。

しかし、次の時代はもうそこまで来ている。そもそもWWWという技術そのものがTim Berners-Leeが1989年にそのアイデアを思いついてから20年以上経っているのである。Internet上のユーザーインターフェィスは次の時代に入る頃ではある。

Webの仕組みそのものは無くならないが、そこに画期的なUIが付加されることで全てが変わって見える。我々はそれをe-bookと予想し、それをe-portal2.0というなんとも陳腐な名称をつけてみたが、どうだろうか。そもそも○○2.0と銘打った段階で既成の枠内にしかいないことを吐露したようなものだが、それはご都合主義になって一旦脇に置いておく。

AppleのiBook Authorは、どこまで意識的かわからないが、それを見据えたツールのように見える。まあ、これも歴史が答えを我々に教えてくれるだろう。

それよりも気になるのは、e-bookかどうかは別として、次の時代もまたこうしたInternetのツールは、一人勝ちのための道具に化すのだろうか。そろそろそういうパラダイムさえも崩れそうな予感はあるのだが。

もっといえば、internetの一部であるInternet自身の限界も次の10年では見えてくるかもしれない。IPV6はいけていないし、この先どんな新しいパラダイムが登場するかは予断を許さないし、まあ、それだけでも老いの楽しみではある。

*1:かくいう私もe-portal2.0という言葉を考えたのだった。そして、その時e-をつけざるをえなかったのは、portal2.0はすでに台湾の会社が使ってしまっていたからである。