Seishi Ono's blog

Fugaces labuntur anni. 歳月人を待たず

黒船としてのオープンエデュケーション

オープンエデュケーションは、日本の高等教育機関にとって脅威かそうでは無いのか?日本語という非関税障壁に守られているガラパゴス、鎖国された日本は、いつまで鎖国を続けられるのだろうか?

私にすれば、黒船がそこまできているのに惰眠をむさぼっているように見える日本の高等教育機関の明日が心配でならないが、それは大きな勘違いなのだろうか?

それが正しかったどうかの答えは、きっとまだ少し先にある。

そういうわけで、最近、明治維新の志士たちは、こんな風にやきもきするような焦燥感に捕らわれていたのかもしれないと感じることがあるが、それは傲慢というものだろう。しかし、実はそれ以上に、魯迅の吶喊自序にある、諦観とささやかな希望に私は、同感する。魯迅は語る。

「かりにだね、鉄の部屋があるとするよ。窓はひとつもないし、こわすことも絶対にできんのだ。なかには熟睡している人間がおおぜいいる。まもなく窒息死してしまうだろう。だが昏睡状態で死へ移行するのだから、死の悲哀は感じないんだ。いま、大声を出して、まだ多少意識のある数人を起こしたとすると、この不幸な少数のものに、どうせ助かりっこない臨終の苦しみを与えることになるが、それでも気の毒とは思わんかね。」「しかし、数人が起きたとすれば、その鉄の部屋をこわす希望が、絶対にないとはいえんじゃないか」魯迅『阿Q正伝・狂人日記』岩波文庫

「このままでいいのか悪いのか、それが問題だ」*1と小田島雄志が訳したハムレットの心境もまた同じ所にあったに違いない。

*1:To be, or not to be: that is the question.