Seishi Ono's blog

Fugaces labuntur anni. 歳月人を待たず

新聞を読む

私の高校時代の愛読書に羽仁五郎の一連の評論があった。その中に新聞の読み方の話が何度か登場する。新聞を読むときは赤鉛筆と青鉛筆を持って読め。自分にとって良いと思うことがあれば赤線を引き、悪いと思うことがあれば青線を引く。そうして赤い線と青い線の量を比べれば世の中がどちらに向かっているかわかる、というのである。

これは、高校生にとって、言うは易く行うは難しである。まず何を基準に良いと悪いの判断すればいいのか、自分の価値観が相当できあがっていなければ難しい。事態に対する鋭い直感力や読解力が試される。一度挑戦しようと思ったが、半日かけても一本も線を引けなかったのを覚えている。40年を経た今でもこれだけは自信がない。

羽仁五郎の新聞の読み方の教えは、他にもいろいろあって、新聞のタイトルだけで中身を判断してはいけないとか、新聞は複数読めというのがあったと思う。それから海外の新聞もできるだけ読め、それだけで世の中のことはずいぶんとわかるとしたものである。羽仁五郎は左翼の人だが、一般紙を「ブル新」(ブルジョアに媚びる新聞?)と呼び、唾棄すべきものとして扱っていた左翼人とはまた異なるところにいたように思う。

私といえば、赤鉛筆は持てなかったが、新聞を複数読む習慣はだいぶ長いことあった。最近はインターネットがあるので、後はamazon kindleでヘラルド・トリビューンを時々眺めるくらいで済ませてしまう。

ところが、民主党への政権交代からこちら新聞を読んでいて奇妙に思うことが増えた。

例えば日本の新聞と海外の新聞(ここでは米国および英国)での日本に対する評価の相違である。昔から日本の論調と海外論調とではずいぶん差があるとは思っていた。英語圏と日本の論調の間にも大きな開きを感じるときがあるが、これがヨーロッパ大陸だとさらに違う。今は亡き私の親友がフランスに滞在している間、彼の教えてくれるフランスの論調は、英語圏とはまた違う大きな驚きをもたらしてくれたものである。

しかし、最近、こうした日本と海外の論調の差というだけ済まない状況を見かけることがなぜか急に増えてきているように思う。日本の新聞が海外の論調と称して伝える内容が、私が英語で理解する限りの内容となんだか大きく異なっているのである。それは、沖縄の基地問題、政治資金規正法問題では著しい。こういう時こそ私の亡友に是非話を聞いてみたいものだと思うが、無論今となってはそれも果たせない。

それ以前のことと言えば、ライブドア問題、経済評論家の痴漢行為、元財務官の万引きなど、私には理解しかねる事態が立て続けに起こった。特にライブドア問題の時などは、私の知人の法律の専門家も会計学の専門家もあれが有罪のはずはない、と一致した見解を述べていただけに裁判の結果を聞いて驚いたものである。

私には2つの流れがここで合流したようにさえ見える。犯罪者、容疑者または被疑者とされた彼らが、そして今問題になっている政治資金規正法の関係者が、破廉恥漢であり悪徳の士ではなかったというつもりは全くない。しかし、裁くとはどういうことであり、何を理念に持つべきなのか。人民と裁判はどのように関わりがあるのか。一方では裁判員制度が生まれながら、他方ではそのような問いが今何処にもたてられていない。そうして、裁判員制度は、そのような問いが与えられていないから参加者にとっては心的ストレス以外の何ものでもないという結果さえもたらす。

うむ、これはどこかで聞いたような話ではある。このようにして、やがて正義の裁きは、破廉恥漢や悪徳の士から遂には善意の人にまで及んだのではなかったか。さてそれはどこの話だったのかと考えてみたら、やはり同じ羽仁五郎の著作にあった戦前の治安維持法時代の話だった。大正デモクラシーの熱気が一方にはあり、他方では海外からの情報はいつの間にか少しづつ意味を変えられ、軍部は正義を振りかざす。人々は中国戦争の勝利に喝采する。

もちろん。今は軍部はない。中国戦争もない。しかし、それに代わり、人々を義憤に駆らせるものがあり、そうして義憤に駆られる人々をまた喜ぶ人々がいる。反対に戦前の共産党は軍部に反抗的であり、統制に反対していたが、今はそれに代わるものはあるのだろうか?羽仁五郎は、治安維持法はすぐそこまでやってきていると40年も前に語って、周囲の失笑を買っていたが、今でもまだ失笑で済まされる事なのだろうか?

ミケルアンヂェロ (岩波新書)

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