Seishi Ono's blog

Fugaces labuntur anni. 歳月人を待たず

新型インフルエンザ対策と2000年問題

今週は、新型インフルエンザ対策に追われた1週間だった。そこで気がついたのだが、新型インフルエンザに対する認識は人によってかなりの落差があるということだ。人だけではなくて、組織の間でも落差はある。

私は、今回のH1N1はあまり深刻なものとはあとらえてはいないが、すぐ後に控えているH5N1対策の予行演習みたいなものだと思っている。今までろくに対策指針の無かった組織内に一応マニュアルらしいものができあがってゆくのであれば、それもよかろうという位に考えている。

それでも、様々な注意事項を教職員に向かって電子メールなどで伝えるのだが、中にはそれを迷惑メールとよんでいる人もいる。まあ、私からのメールが迷惑なのでインフルエンザ警報が迷惑なわけではないのかもしれないが。

一方では、すべての組織活動を停止しなければならないと言った相当な心配をする人もいる。

人は未経験の事態に対しては、大概こうした両極端の反応を示すものだということは知ってはいるが、今回の意識の差にもかなり驚いた。

楽観し無関心であれば事態を悪化させる。悲観し極端な心配をすればパニックを引き起こす。4月30日〜5月1日にかけての桝添厚生労働大臣の横浜市の感染疑い事例に対する反応などは後者にやや近い例かもしれない。冷静な対応を呼びかける厚生労働省とも思えない。

ここで、ふと、同じことを昔経験したことがあると思いはじめた。コンピュータ2000年問題のことだ。2000年問題は、ほとんど人類にとって未知の経験だった*1。そこには悲観論と楽観論が交錯し、人々の意識の差は2000年直前まで大きく乖離していた。

そして、この時は結果的には楽観派が正しかった。その日は原油も止まらず、飛行機も墜落せず、原発も暴走しなかった。何も起こらなかったのである。しかし、悲観派に押されて大規模な2000年問題対策がなされなければ、原発や原油はともかく、日常生活に支障のあるたくさんの事故が発生していたはずである。何事もなかったのは、それだけの努力の結果なのであると考えた方がよい。どんな努力も虚しく、世界がパニックに陥るだろうという極端な悲観論者の予言だけははずれたが、楽観論が勝ちを占めたわけでもないと私は考えている。

新型インフルエンザは、20世紀に3回のパンデミックを経験しているだけに、この点だけは、2000年問題よりやや有利である。今回のパンデミックまでにはまだ少し余裕がありそうなので、やがて一定の時間を経て両者の認識が中庸なところに落ち着くだろう。

本当に恐るべき、H5N1パンデミックまでの間に、私たち自身のこうした意識の差を埋めることも考えておいた方が良さそうである。少なくともこの点ではWHOも国もあてにはできない。

*1:実際には、人々は過去にも似たような経験をしていたのである。日本では、昭和から平成への切り替えがあった。2000年問題末期にはこの時の経験が注目されていた。他にもOSの保有する時間が切れてしまうなどの問題を経験していたはずである。しかし、これらの問題は静かに通り過ぎていってしまった。