Seishi Ono's blog

Fugaces labuntur anni. 歳月人を待たず

病は気から

若い頃鈴木力衛訳のモリエール全集を買い込んで熱心に読みふけった時期がある。しかし今になると大概のことは忘れてしまった。読んでいてつまらないと思って挫折したストーリーもたくさんあった。17世紀のフランスの事情を理解しないではおもしろさも伝わってこない。

しかし、モリエールが医者嫌いであって常に医者を揶揄していたのは愉快だったという記憶がある。後年パリに行った時にコメディフランセーズでみた芝居は「病は気から」であった。美しい舞台であってとても印象深かったが、もともとフランス語ができるわけではないので、途中で寝てしまったのは残念であった。

さて、自分のことである。最近健康診断で高血圧と言われるようになったので血圧計を買い込んで定期的に計測している。高血圧に関するウェッブページも結構見るようになった。するとこの世界では、多数説は極めて明確な治療方針を持っていても少数説が存在し、その内容を検討すると諸説紛々であることがわかる。

私は、最初に計測したときには中等症高血圧に該当する結構厳しい血圧だったのだが、毎日計測しているうち上の血圧は正常血圧の時もあることがわかった。しかし下の血圧は中等症高血圧のままである。「下が高いのは動脈硬化の可能性があるとかつてはいわれていたが、最近は脈圧(上下の差)が大きい方が危ないと言われている」「下が高いのは上がやがて高くなる前兆」「何らかの病因がある」なかには「下の血圧は不要」というものまである。

また降圧治療を薬物に頼るのは主流の医学では常識だが、反対している人もいるようである。「循環器系のリスクは下がるけれども総死亡率は上昇する」などの主張は、医療の分業化が進んでいる現在そういうことがあってもおかしくないと思わせる。

これらの議論の重要な点は、実は高血圧の原因の大半がまだよくわかっていないというところにある。多くの議論は統計的な結果から判断されている。私も少し医療統計のお手伝いをしたことがあるのでその有用性と重要性については自分なりに理解しているつもりでいる。一方で統計的な結果をどう解釈するかは大変難しい問題があることも確かである。結局解釈はある立場の表明にならざるを得ないので解釈が一様でないことは不自然ではない。つまりそれは仮説の一つに過ぎない。

高血圧の原因がわからない以上、統計的手法は極めて大事である。また多数の研究者の解釈に従わざるを得ない部分もある。しかし、科学的なアプローチであればあるほど、それはまた別の研究によって仮説は否定されることもあることも考慮に入れなければならない。同じ循環器系でも不整脈のコントロールについてなどは、何度かの大規模調査で過去の仮説が否定されている。

仕方のないことかもしれないが、その間に間違った治療を受けた人は災難というものであろう。

モリエールの時代に比べればはるかに医療の信頼性は高くなった。医者にかからなければかつては命を失っていたような病気も今では完全に克服できるという場合がたくさんある。けれども、一個の人間の命の問題として見たときには統計は通用しない。そこで起きている事件はモリエールの時代とあまりかわっていないという部分もある。個人が自分で選択的に判断する必要はいつの時代でもあり、いつの時代でも医者嫌いには根拠がある。

モリエール全集〈1〉

モリエール全集〈1〉